JICA海外協力隊の2年間を振り返って
<ケニア生活終了!>
Chamgei!
こんにちは、てらぼー(@terabow42)です!
JICA海外協力隊の任期が終了し、ついにケニア生活が幕を閉じました。現職参加の私は早速元の会社に戻り、せわしない生活を送っています。
▽離任の記事はこちらから▽
この2年間を振り返ると本当にいろいろなことがあったな~と思います。日本では絶対に経験できないことばかりで、楽しいことも苦しいこともたくさんありました。
今回はそんなケニアでの活動を振り返ってみたいと思います!
活動のこと
私が住むことになったのは、ケニアの西部ナンディ郡(Nandi County)のカプサベット(Kapsabet)という田舎町。その街の上下水道会社に配属となりました。
田舎といっても日本人がイメージする地方都市とはレベルが違います。ケニアの田舎というのは、幹線道路1本以外は舗装されておらず、電気や水が頻繁に止まるような場所を指すのです。
私の任地も1日1回は停電がありましたが、これでもケニアでは中都市なので末恐ろしいです。同期の中には水道が通っていない地域に住んでいたり、10日間電気がない生活を強いられた人もいたので文句は言えませんでした。
そんな私の活動内容は、水道会社の無収水率を下げるためGIS(地理情報システム)を用いた水道配管地図を導入して漏水・盗水箇所や水道インフラを可視化しようというプロジェクト。
赴任当初は、コンサルティングファームで勤務していた経験を活かし、業務効率化なども含めて貢献できることはたくさんあるのではと意気込んでいました。
しかし、その期待は早々に打ち砕かれ、1年が経過しても正直何も貢献できずにいました。その時の想いも記事にしているので、ぜひそちらから読んでいただければと思います。
▽1年経過時の記事はこちらから▽
結論からいうと、赴任当初に設定した2つの計画「ICT部門の定常業務の効率化」「GIS(地理情報システム)を用いた、水道インフラ可視化のための水道配管地図作成」はどちらも完了しました。
1つ目の「ICT部門の定常業務の効率化」に関しては、人の判断が入らない定常業務のワークフローを作成して課題を洗い出し、Excelの自動化ツールを開発しました。
結果的に3業務全体で75%以上の業務削減を実現。同僚たちはICT部門メンバーであっても関数を使えないようなレベルだったので、初心者でも扱えるような仕様に設計し、1クリック毎の手順までブレイクダウンしたマニュアルを用意しました。それに加え、対面指導によって彼らが理解できるまで根気強く教えました。
しかし、彼らにその業務が定着するにはかなりの時間がかかりました。理由は従業員のモチベーション欠如。ただでさえ仕事がなく、就職するには賄賂やコネが最も重要なケニア。入社できたとしても評価制度が崩壊しているので、彼らにとってはあくまで就職するのがゴールです。
だから仕事がラクになろうが、早くタスクが終わろうが、そんなことは彼らにとってどうでもいいことなのです。やる気のない人に何かを教える難しさと、ここまで意味のない案件を作ったJICAへの不信感を感じる場面でした。
結局、3業務のうち2業務の自動化ツールは今でも引き続き使われているようですが、業務削減されたとしても彼らは余った時間でYouTubeやTikTokを観ているだけなので、なんとなく無力感を感じてしまいます。
2つ目のGISの活動は本来メインの要請内容でした。しかし、理不尽で非論理的な理由を付けられ、1年以上は配属先から活動開始の許可が下りませんでした。
そのため、1年が経過したタイミングで私は途中で配属先のメンバーに頼ることを辞め、一人で仕事を進めることにしました。
離任半年前にようやくGIS担当者が採用され、そこからは2人で活動を進めることができました。しかし、採用された彼女も大学で地理学専攻だったにもかかわらず、GISのことを全く知りません。
それどころかショートカットキーを一つも知らないので、vlookup関数を理解してもらうのに4時間かかりました。最初は普通のケニア人と同様に、できないのにできると嘘をつくし、納期も守らないし、責任感も全くなさそうな感触を受けました。
しかし、「ケニアの教育は世界最低レベルだから仕方ないけど、世界基準だとこういう風に仕事を進めるんだよ」と根気強く教えると、彼女はとても納得し、素直に聞き入れ、仕事のスピードも上がっていきました。
のちに彼女は「失敗したときの体罰や叱責が怖かった」と打ち明けてくれました。ケニアの教育現場では、テストの点が悪かったり生活態度が悪かったりすると、鞭のようなもので教師が生徒を何度も叩くのです。21世紀の出来事とは思えませんが、嘘のような本当の話です。しかも、その教員たちは時間通りに授業に来なかったり、平気で無断欠勤したりするみたい。
最終的に彼女はICT部門のメンバーよりITに詳しいような人材に育ち、私が依頼したことも段々とできるようになっていました。
最後には彼女の助けもあり、予定していたカプサベット・ナンディヒルズの2地域で地図を完成させることができました!取得したメーターと水道管の座標は各5,000件を超え、それに加えて活用できそうなレイヤーも順次追加。
最新のクラウドシステムやアプリも取り入れ、ワークフローを最適化し、かつ初心者でも使えるようなシステム環境を構築。さらに、管理者・ユーザー両方に向けて業務マニュアルの作成と使い方の説明会を実施しました。自分でもよく一人でここまで持っていけたな~と思えるほど、現場に適したシステムになったな~と思います。
しかし、結局会社の経営陣は最後までこの地図を活用しようとはしませんでした。というのも賄賂やコネクションだけでキャリアを上り詰めたマネージャー陣たちは、こうした新技術をどう活用すれば役に立つのか分からないのです。
しかも、プライドだけは極端に高い彼らにとって、自分の無能さを晒すことだけは絶対にしたくないので私のアドバイスを聞くことは全くないし、失敗したくないので新たな冒険もしたくありません。
トップダウンな体制が主流のケニアでは上の指示が絶対なので、管理職がこのような姿勢だと平社員たちが当然協力的になるわけもありません。私の活動に協力的だったのは、GIS担当者の彼女とICT部門の一人だけでした。
じゃあ、「なんでボランティアなんか要請したの?」って不思議に感じると思いますが、実際こうした現状は“JICA海外協力隊あるある"であり、「行ってみたら仕事がない」とか「配属されたら求められていなかった」という話はよく聞きます。
なぜこうしたことが起こるのかというと、JICAは特に現地調査もせず、テキトーにヒアリングを行ってテキトーに案件を作るからです。だから、場合によっては安全基準的に大丈夫なの?と不安になる任地にボランティアが派遣されることさえあります。
結局JICAとしては外交上の実績の積み上げだけが目的であり、ボランティアに成果は求めていません。効果のない公共事業に大量リソースを投入するのはどうなの?と思ってしまいますが、そもそも実態は国民にあまり知られてないし、批判がそこまでない以上、こうしたスタンスを変える気もないでしょう。
個人的には、少しの労力で協力隊の活動はかなり効果的なものに生まれ変わると思うので、国民の税金を投入している以上、今より少しでも投資対効果の高い事業になってほしいなと願うばかりです。
ケニアのこと
結論、最後まで私はケニアを好きになることはできませんでした。もちろん、ご飯が美味しくないとか不便とか不衛生といったことも理由の一つなのですが、最大の理由はやはり“人"です。
もちろんケニアにもいろんな人がいるので、主語を大きくしたくないのですが、私の場合はケニアで会ったほとんどの人に対して不信感を抱きました。
特徴として、「嘘をつく」「約束や時間を守らない」「言い訳をする」「人をとにかく騙そうとする」「人種や性別で差別をする」「偏見が強い」「モノやカネを求めてくる」などです。
感覚的にはケニア(ナイロビを除く)で出会った90%以上の人は、これらの全ての特徴を備えていました。おそらく、彼らの文化では普通のことなので仕方がないことではありますが、正直私との相性は良くありませんでした。
これが数日の滞在なら我慢できるのかもしれませんが、2年間毎日のように出会うわけなので、当時は常にイライラしていたと思います。しかも、観光ではなくビジネスとしての関係というところが最も大変な部分であり、こうした人と何か物事を進める難しさを実感しました。
ただ、ケニアのことを知れば知るほど彼らが卑屈になっていく理由も分かってきます。私は「知らないのに批判する」ことはしたくなかったので、この国の文化を学んだり毎日現地の新聞を読むことは欠かさず行っていました。そのため、帰国時には誰よりもケニアの文化や社会情勢には詳しくなっていたと思います。
毎日の情報収集の中で、やはり過去の分断統治や建国後の変遷が影響して、いかにこの国が救えない状態になっているのかを実感しました。それは、部族間の対立や汚職・ビジネスや教育分野の課題・先進国の支援など様々な要因が複雑に絡みついたもので、説明しようとするには何時間もかかるものです。
最終的には、多大な時間を費やしてやっと彼らのことを少しだけ(まだまだだけど…)理解することができました。
もちろん、彼らにも「陽気」とか「素直」とか良い特徴はたくさんあります。いや、おそらく植民地支配より以前の部族間対立がなかった時代(もっというと、部族のくくりがなかった時代)には、彼らは互いの違いを許容し、むしろ現代よりも多様性を認める社会を築いていたのでしょう。
それをぶち壊したのは悲しいことに外的要因が大きいというのが現在の通説で、全てが彼ら自身の責任ではないというのが、やりきれないところです。
幸い、ケニアはインターネット普及率が高く、最近はどんどん外の情報が流入してきています。それに伴い閉鎖的な価値観をおかしいと気づく若者も首都を中心に増えていて、少しずつ変化が生まれ出している状況ではあります。
個人的には各部族の慣習や伝統工芸品・衣装が好きだったので、各部族の伝統が薄れていく寂しさはありつつも、一人一人の生活水準に目を向けて考えると、この国に大きな変化は必要なんだろうなと感じてしまいます。
一緒に過ごした彼らの生活が少しでも上向きになるよう、今後何かしらで貢献出来たらなと考えているところです。
協力隊の2年間を振り返って
ネガティブなことをたくさん書いてしまいましたが、私はこの協力隊の2年間を送ったことを全く後悔していません。私は自分の知らない世界を見たり感じたりすることがとても好きで、確かにイライラすることはたくさんあったけど、それらを苦労しながら一つずつ解決していくのはとても楽しかったなと思います。
言語が異なる環境下で人種差別を受けながらも、日本人一人で地図を完成させたことは私の自信にもなったし、これ以上難しい仕事は今後ないのではないかと思っています。(タスクの難易度ではなく、仕事の進め方やコミュニケーションの部分で)
こうした苦労は私のキャリアにとって間違いなく役に立つ経験になったし、今後別の国で働くことになったとしても活かせる部分はたくさんあると思います。
そういう意味だと、協力隊事業はたとえ費用対効果が低いとしても、人材育成という意味では多少の効果がある事業なのかもしれません。
そして何より、ケニアで好きになった部分もたくさんあります。一番はやはり気候。標高2,000mの高地に住んでいた私の任地は、1年中過ごしやすく、暑さが苦手な私にとっては天国のような場所でした。
加えて、ケニアは飲み物のクオリティが高いです。ビールは途上国とは思えないほど濃厚な銘柄が多いし、高地で育った紅茶やコーヒーは絶品です。(ただ、ケニア式の飲み方は、ビールは常温だしお茶やコーヒーにはえぐい量の砂糖を入れるので嫌いです。)
私はあまり惹かれなかったけど、自然が好きな人にとってはサファリや登山は素晴らしい場所のようだし、フルーツなんかは安くてとても美味しいらしい。
個人的にケニアにはもう旅行では行きたいとは思わないけど、地政学的リスクを含めてもビジネスの可能性は秘めているし、経済成長率も人口も上昇し続けている国だから、仕事だったらまた戻ってきたいな~。
もしそうしたチャンスがなかったとしても、30年後や40年後にケニアがどう変わっているのかには興味があるので、いつか戻ってきたいです。(個人的にはナイロビ以外ほとんど変わらない気がする…。)
こんな感じで2年間の協力隊を振り返って、思ったことを綴ってみました!今後も何かしらの形でケニアで出会った方々とは関わっていきたいです!
では、Kwa heri!!!
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