ケニアの人たちは本当に親切なのか。
<コラム第1回:ケニアの人たちは本当に親切なのか>
「ケニアの人たちはとても親切だ」
ケニアに足を踏み入れたことがない人でも、他人からこんな言葉を聞いたことがある人は多いのではないだろうか…。現地でJICA海外協力隊をしている私も、何度かこの言葉を耳にしたことがある。
それは、現地人から「オレたちはめちゃくちゃ親切だろ!?」と言われることもあるし、ケニア在住の日本人から「ケニア人はすごく親切だよね」と聞いたこともある。
正直なところ私は全く共感できない。それどころか、これまで足を踏み入れたことがある国々の中で最も不親切だと思ったこともある。そしてさらに興味を惹くのが、私と同じ意見を持つ日本人も一定数存在することである。
なぜ同じ日本人の中でも、このテーマに関しては真っ二つに意見が割れるのだろうか。双方の意見と経験をもとに、「親切とは何か」について考えてみたい。
親切とは
まず大前提として、2つ事前に断っておきたい。
①ケニアの中でも42部族が存在し、その中にも複数のサブトライブという分岐がある。そして、当然一人一人が異なる考え方を持っている。だから私が「ケニア人」と書いたとしても、あくまで私が会ったことがある一部の人々の大まかな傾向であり、実際には様々な考えや価値観を持っている人がたくさんいることを理解していただきたい。
②実際のところ、私がアフリカ大陸に足を踏み入れたのも、海外に住むという経験自体も初めてなので、比較するには経験不足だというご指摘があるかもしれない。またケニアに住んでいながら、国民性にケチをつけるのは失礼だと思う方もいるとは思う。だから、今回の記事はあくまで特定の人を傷つける意図はないし、あくまで個人的な意見であるということを念頭に置いていただきたい。私もできるだけ尖った言葉は避けながら、執筆したいと思う。
その上で、まず「親切」という言葉の定義を確認したい。実際に意味を調べてみると、このような記載があった。
1 相手の身になって、その人のために何かをすること。思いやりをもって人のためにつくすこと。また、そのさま。
2 (深切)心の底からすること。また、そのさま。
この文章から、この言葉には2つのプロセスが含まれていると感じた。
①相手の気持ちを汲み取ること。
②相手のために良いことをしてあげること。
そしてそれと同時に、なぜこのテーマに関して意見が分かれたのかも何となく理解した気がした。おそらく、親切の解釈が人によって全く違うからである。そしてさらに重要なのは、ケニア人と日本人の間だけでなく、日本人の中でも解釈が異なるという点である。
こうした理由から、「親切」という一単語について話したとき、人によって意見が異なるのは当然なのだろう。だから、2つの要素において、1つずつ個人的な見解を述べていきたい。
相手の気持ちを汲み取ること
「人の気持ちを考えなさい」
日本人であれば、誰であっても一度は聞いたことがあると思う。家庭でも教育現場でも、我々は「相手に迷惑をかけないようにする」という道徳観を教育されてきた。個人的には、この考え方はとても素晴らしいと思う。
だけど、いろんな国を旅すると、この考え方は必ずしも普通ではないということに気づかされる。特にケニアでは、「迷惑を互いにかけるのは当たり前だ」という考え方があるように感じる。だから、相手の気持ちを汲み取るという場面は少ないし、そもそもあまり重要ではないのだ。
例えば、私の職場では「時間通りに来てくれない」とか「約束を反故にされる」ということは日常茶飯事である。そして彼らは、そうした行動をとっても決して相手に謝らない。日本人としてはかなり頭に血が上る案件である。しかし、逆に私が彼らに同じようなことをしてしまったとしても、彼らは全く文句を言わない。何事もなかったようにその場は流れてしまうのだ。
別の例として、ケニア人は相手にはっきり物事を言うということもある。他人に用意してもらった料理に対して「美味しくないね」とか、着ている服に対して「ダサいね」とか、日本人だったら絶対に言わないことも平気で言う。相手が傷つくとか、空気が悪くなるとか全く考えないのである。ただ、逆に私が彼らに同じようなことを言ったとしても、深く傷ついたりはしない。
これらの例は、一長一短であり、どちらが良いとか悪いということはない。全く違う価値観の国で生まれたのだから、それぞれの考え方は尊重すべきだと思う。
ただ、このことから一つ言えるのは、ケニアの人は人の気持ちを考えることが大の苦手であり、日本人はめちゃくちゃ得意であるという点である。もし同じことを思いついたとしても、ケニア人は口に出すし、日本人は相手が傷つくと思ったら思いとどめることだろう。
このことをよく表している例がある。ケニアで歩いていると、道端でよく「チャイナ!」とか「チンチョンチャン!」と言われる。そのほとんどの人は差別用語であるとは知らず、ただ仲良くなりたくて言ってくることが多い。でも悪意がないからと言って、私としては気分は良くない。だから、そうした人たちに「タンザニア人って言われたらどう思う?」と聞くと、「オレはケニア人だから、そう言われるのは嫌だ」と言う。人の気持ちを考えることが苦手だという典型的な例だろう。
個人的には日本人の考え方の方が好きだ。人の気持ちを考えずに、ズカズカとプライベートゾーンに入ってこられるのは、正直なところ気分は良くない。だから、私はこのギャップに驚くあまり「ケニア人は親切ではない」と感じてしまうのだと思う。逆に日本人でも、このことがあまり気にならない人は、このような場面に出くわしたところでイライラすることはないのかもしれない。
相手のために良いことをしてあげること
「相手の気持ちを汲み取る」→「相手のために良いことをしてあげる」というのが、親切という感情の順序であるような気もするが、ケニア人が何もしてくれないのかというとそういう訳ではない。むしろケニアでは、何か困っている人を見てから手を差し伸べるまでの速度は、圧倒的に日本より早い。
例えば、私が道に迷っている素振りを見せれば、こちらから聞く前に教えてくれる。市場で何かを探していれば、それが競合であったとしてもどこで売っているかを教えてくれる。何か必要なモノを持ち合わせていなければ、すぐに自分のものを貸してくれる。
一定の日本人が「ケニア人は親切だ」と言うのは、この理由が一番大きいだろう。確かに日本では「話しかけたら迷惑かな」とか「不審者と思われないかな」と考え、知らない人に話しかけることは少ない。だから、こうしたケニア人の側面を素晴らしいと思うことについては、完全に同意する。もし、こうした風潮が日本にあったら楽だろうなと思う場面はたくさんある。
ただ個人的には、こうした側面を完全に好きになれない点が2つある。
①差し伸べられた手が、必ずしも最適解ではないことが多い。
②見返りを求められることが多い。
①については、確かにみんな助けてはくれるが、教えられた道順が間違っていたり、探し物が教えられた先に無かったりすることはとても多い。そして、日本人の感覚では嘘をつかれたと感じてしまうのである。
ただ、彼らは決して故意に嘘をついているわけではない。正確性がケニアではあまり重要ではないのだと思う。交通手段が発展していなかったり、生活インフラが脆弱なこの国において、「時間を有効活用する」とか「体力を温存する」という考えはほとんどない。だからケニアの生活習慣の中では、助けること自体が最も重要であり、その後その人がどうなろうがあまり気にならないのだと思う。実際のところ、私はあまりケニア人を信用していないので、この点についてイライラすることはあまりない。
ただ、②についてはとてもムカついてしまう。助けてもらえて良い気分になっていたとしても、一言目には「お礼に昼飯をおごってよ」とか「お茶代ちょうだいよ」とか言われる。おもてなしの文化を持つ日本人としては、その"がめつさ”にとても嫌な気持ちになってしまう。
だけどそのようなことか常態化していても、心からこの国を憎めないのは、背景に先進国から搾取され続けてきた歴史を見てしまうからだろう。この国でしばらく過ごすと、こういう考え方になっても仕方ないと思えるバックグラウンドがあることに気づく。
背景 | 習慣・考え方 |
---|---|
極度に貧困である環境 | 外国人は金持ちだという固定観念から、物や金を求めてくる。 |
与えられることが当たり前だという考え方 | 先進国からの支援を受け続けてきたことから、恵んでもらうことが日常になっている。 |
賄賂が蔓延る社会 | 政府のみならず、一般社会でも自分を有利にするための対価として金銭のやり取りがある。 |
貧困であることは過去の奴隷貿易や植民地政策が尾を引いているのは明白だし、経済的に自立ができていないのは先進国が長年にわたって与えるだけの支援をしてきたことが影響している。ケニアはアフリカでも最も汚職が酷いと言われているが、それは過去の分断統治が関連しているのは明白である。だから、こればっかりは彼らが悪いとは言い切れない。
これ以外にも、彼らの宗教観や伝統的な考え方が日本人との考え方の差を生み出している場合もある。様々な要因が絡み合って、価値観の違いに表れているのだろう。
互いの価値観を認め合うこと
今回の記事を執筆したのは、ただ自分の疑問を解消したかったからであり、親切さに順位をつけたかったわけではない。そして、一番大切なことは互いの考え方を理解したうえで、うまく付き合っていくことだと思う。
正直なところ、ケニアに来たばっかりの時は、人と話していてもずっとイライラしていた。でも、彼らの性格やその裏にある考え方を知ることで、一部の人とは上手くコミュニケーションを取れるようになった。仲良くなれた友人とは未だに付き合っているし、どうしても無理だと思えば距離を置くようにしている。
今後も、この国が私にとって居心地の悪い環境であることは変わりないのだろうが、お邪魔しているのは自分であることを忘れずに、謙虚さと尊敬の念を忘れずに生きていきたいと思う。
▽次回の記事はこちらから▽
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